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03, April, 2025

 四月になると、色々なゲームやサイトがエイプリルフール企画をやりますよね。今年はわたしも乗っかって、エイプリルフール企画をやっていました。こんなイメージですね。PDF以外は、ほとんど二年前の使い回しです。エイプリルフールのこと、その年に書かされたレポートをインターネットに公開する日だと思ってるのか?
 「聞きたいことがあってきたんですケド。」とか、「だから言ったノニ。」みたいな、接続表現で文を終える文法についてのレポートですね。これらを意味的に分類してみよう、という試みでした。先日Twitterにおいて、アナタという、いわゆる二人称が「敬意逓減」を起こしている、「これ言語学徒には興味深いよねww」みたいなツイートを見てたいへん気分を害したので、今年は国語学のレポートを引っ張り出してきました。(先生からの評価も良かったしね)。しかし、せっかくエイプリルフールをやったにもかかわらず、翌日から憂鬱な状態に陥ってしまい、そのまま今日まで放置していました。結果、何の日でもないのに嘘をつき続ける、嘘つき村の住人になっていたのでした。嘘はよくない!「嘘は健康によくない!」「ハァ?嘘は健康に良いんだよ!」
 何を書いているんだろう。お酒は飲んでいません。

28, March, 2025

 今日はね、ゲームセンターへ行きました。THE iDOLM@STER TOURSをやりたくてたまらなかったのです。昨年の夏、秋葉原でのロケテストに参加しましたので、今日で二度目のプレイです(プレイ回数で見れば、ロケテでは二回できたので、三回目です)。キャラクターとハイタッチできる機能には興奮してしまいました。しかし、ハイタッチといえば高槻やよいだろ!とも思ってしまいます。まあ、今は信号機のキャラしか実装されていないので、思っても仕方のないことです。
 高槻やよいといえば、三月二五日は、やよいちゃんの誕生日でしたね。おめでとうございます。今年も高槻市では、仁後真耶子さんを呼んで誕生日パーティをしたようです。一昨年からずっと参加していたのですけれど、今年は弟の引越もあり、色々の用事ができて、都合がつきませんでした。やよいライナーを見損ねました。とはいえグッズを買う資金も用意できませんし、かえって都合が良かったのだと思いましょう。それにしても、年一の行事に参加できないのは少し寂しいですね。何でも、やよいちゃんのマンホールが御披露目されたそうですよ。可愛いので必見です。暇ができたら見に行ってみようと思います。
 閑話休題。ゲームセンターでツアマスを終えて、フラフラしていると、これが目に入ってしまいました。しかも、手元には、前日に母がくれた御小遣いを握りしめています。これはやらねば、と、咄嗟に思ってしまいましたね。わたしは壊滅的にUFOキャッチャーが下手糞なので、2,200円もかかりました。家に持って帰り、大分で買ってもらった可愛いシナモンの上に可愛く飾っています。百合豚としては祥子ちゃんも欲しいんですけど、流石にね。
 こういう寝そべりぬいぐるみは、丸山彩のが中古で4,000円とかになってしまい、手が出ない悲しみを味わったせいで、トラウマなんです。
 (「Bang Dream!」ページにおいて、画像リンクを誤記しており、クリア画像が見られない状態になっておりました。ご迷惑をおかけしました。)

27, March, 2025

 今日、弟が家から出て行きました。就職のため、某地へ引越したのです。家族の中で最も仲の良い人間だったので、少し寂しい気もします。数学科で論理に強い男であり、我家で(私を除き)唯一大学に通う身分でもあったのに、話し相手を失ってしまいました。春は別れの季節ですねえ。
 別れの季節と言えば、アニメが着々と最終回を迎えています。今季はアニメを二つ観ていました。以前から度々言及してきた『Ave Mujica』と、『沖縄で好きになった子が方言すぎてツラすぎる』ですね。タイトルが長すぎる。タイトルが長すぎてツラすぎます。本作は、「方言すぎ」る〈ひーなー〉と、それを共通語に訳してくれる〈かーなー〉とが、東京から沖縄へ転校してきた〈てーるー〉に沖縄の文化を教えてゆくラブコメです。物語の構成としては、土着文化が都会人によって異国情緒の中で受容されてゆく、典型的な植民者による異国表象であり、さして面白いものでないようにも思えます。しかも、Introductionに百合が好きだと書いてるくせにラブコメを見るのかよ、と思う読者もいるでしょう。実際、ラブコメを見たのは、かなり久しぶりです。ぱっと思いつく限りでは、『中二病でも恋がしたい』が最後かも知れません。そんなわけで、『沖ツラ』も百合として見ました。
 私の中では、元来から百合というものは、恋愛感情を必須要件としていません。そもそも、単に「好きだ」と言われても何のことだか分かりませんので、その主客が男女なら不愉快で女同士なら愉快だという理屈もありません。ただ、現今の社会において女同士の恋愛感情は非常だとされているので、百合漫画はよく、恋愛感情を言説化します。これを愉快に感じるわけです。そして、これが愉快なら、同様に非恋愛的な対人感情が言説化される光景も愉快でなければなりません。その意味で、『沖ツラ』は良いアニメだと感じました。とくに最終回ですよ。私としては、結末の「ずっとbest friend」みたいな場面よりもむしろ、冒頭に百合を感じました。
 「ひーなーがでーじなってる時はそばにいてあげたい」
 〈てーるー〉とのディスコミュニケーションに困っている〈ひーなー〉を見た、〈かーなー〉の発言です。「でーじ」の際にそばにいることが、〈かーなー〉にとって〈ひーなー〉との関係性なのですね。授受の表現は、側にいることが相手にとって恩恵になる、という信奉を示しています。逆に、〈かーなー〉が「でーじなってるとき」には〈ひーなー〉が側にいてほしいのでしょう。しかも、義務でなく希望の形式が使われていることも見逃せません。結末ちかく、ユタのお婆さんは、持つ者は持たざる者に分けてあげる、貰った者はまた、持たざる者に分けてあげる、みたいなことを述べていました。この与えられた教訓と同様の行為が、〈かーなー〉にとって希望の対象となっている点に、持続的な関係性への欲求を見ました。目前に留まる想い人の〈てーるー〉に事情を聞くのでなく、〈ひーなー〉を追いかけて「そばにいてあげたい」というのが、〈かーなー〉の思う〈ひーなー〉との関係性なのであり、その継続にたいする切実さは百合なのだと思います。
 『Ave Mujica』は‥‥。私の鑑賞力の問題なのですが、ずーっと嫌なことが続いて悩んでいたのに、全てがなんとなーく保留あるいは解決されて、ムジカしかなくなったからバンドが再結成した、ように見えて、ちょっと嫌なきもちになりました。私の鑑賞力の問題です。嫌なきもちを公開するとアンチになるらしいので、もう何も言いませんけど。とにかく私が言いたいのは、「Imprisoned XII」は名曲だということだけです。
 あと、初音(初華)ちゃんが可愛いということも言い添えておきます。

10, March, 2025

 やほやほ。『Ave Mujica』10話みました?前回の日記でこき下ろしたように、もう御話として楽しむきもちが萎えてしまっていたんですけど、ところがどっこいですよ。「Imprisoned XII」が余りにも刺さってしまいました。「もういちどルミナス」並に好きかも、とは言い過ぎかもしれません。でも「ぎゅっDAYS♪」には並んでいると思います。バンドリの歌でここまで好きなのは久しぶりな気がします。ずっと使っていなかったヘッドホンを引っ張り出し、YouTubeにあがっているやつをずっと聞いています。みけが歌そのものをここまで好きになることも珍しいので、自分でも驚いている次第です。
 他は普段と変わらない生活ですね。本を読んで唸ってキーボードを打ち込んで消す日々です。馬鹿気ていますね。そろそろ就活に手を付けないと危険な領域な訳ですが、無能なので、そんな暇が作れません。とはいえD進しても学歴だけ立派なモンスターになってしまいそうですし……。サイト更新してる暇があれば就活すれば?とも思ってしまいます。まあやらないんですけど。こう追い詰められると、偶々事故に見舞われて死んだりしないかなーという気分になりますね。なのに三歩で渡れる信号をも律儀に守ってしまう雑魚なのでした。
 せっかくなので楽しい話もしましょうか。と書いてから10分くらい筆が進まなかったのですけれど、そういえば金曜日、学校で明治39年1月の『帝国文学』を読みました。「趣味の遺伝」が載ってる号ですね。この3ヶ月後には「坊っちやん」が書かれることもあり、余り注目してこなかったのですが、読み直してみると非常に面白い小説でした。やっぱ漱石って天才なんですね。何か論を立てたいくらいです。これは良い話でした。
 それで思い出した。漱石って当然それ自体がめちゃくちゃ面白いのはそうなんですけど、現代までその名を轟かせている背景として、弟子たちにより「漱石神話」が語られてきた、ということが指摘されていたりします。作品に作者の人格が表れる、という前提のもと、漱石作品から素晴らしい人格が読み取られてきたのですね。「則天去私」は、高等学校で習うタームかもしれません。小宮豊隆って人(漱石門下)なんかは、漱石作品を時系列順に並べて、漱石が「則天去私」へ至る道程として読んだりしています。これのせいで、われわれは、漱石って立派な人なんだろうなあと思わされている側面があるのですね。個人的には、その見解に若干懐疑的なのですが、それにしても、「小説家の名前を挙げろ」と言われると、「夏目漱石」が即座に出る人間は、今でもかなり存在するのではないかと思われます。紙幣のせいもあるでしょうけれど、この状況は、なかなか異常ですよね。だって漱石って100年前にはとっくに死んでいるんですよ。
 まあ、「哲学者は?」と聞かれると、デカルトとか、もっと言えばプラトンなんかも出てきそうなのですけれどね。カントすら200年以上前に死んでいますね……。とはいえ、小説という娯楽ジャンルで、100年前の人間が語り継がれているのは、やっぱり妙な気もします。『ゼロの使い魔』の話すら誰もしていませんもんね。このように、(かつて)活きた人間の神話を描く、ということは、十分に起こり得ることです。葬式で語られる一生の見取図なんかも、この神話の一種でしょう。もっと言えば、日常的な友人や恋人についての人間像だって、ひとつの神話たり得ます。そう考えると、「今夜 私の神話になって」という歌詞(メッセージ?)は、実はそれほど異常な思考ではありませんよね。むしろ内省が深く、かつ、馬鹿が付くほど正直なだけなのかもしれません。少なくとも、初華ちゃんの言語動作を「ヤンデレ」などとして神話化するわれわれの無自覚さに比べれば……。私としては、「Imprisoned XII」を、初華ちゃんの心情表明(すなわち初華ちゃんのヤバさ)、という枠組から解放してあげてもよいのではないかなあ、と思ってしまいます。まあ他の読みを提示する訳ではないんですけどね。とにかく、「私の神話になって」を「人間になりたい」の対として見るのはどうかと思いますし、本当に対として演出されているのなら、その演出はどうかと思います。また『Ave Mujica』批判のような雰囲気を生じてきましたが、にもかかわらず、「Imprisoned XII」は名曲なので、物語を無視しても聞いた方がよいと思います。作中作って、それ自体が素晴らしいと親作品を飲み込んでしまうんだなあと思いました。ただTwitterを見ている限り、ここまでこの歌を高く評価している人間は少ないようです。

27, February, 2025

 今日は木曜日ですね。すなわちAve Mujicaの放送日ですね。今日は九話でした。視聴を止める、とかではないのですけど、ちょっと見るのが面倒臭くなってきたのも事実であるような、そんな回だと感じました。
 なんだかな~という印象のままt4vてゃんと感想合戦したところ、「正直CRYCHIC回がターニングポイントになって好転するのを期待していたな」との指摘がありました。まさにこれなんですよねえ。まだ完結していないので何も言うべきでないのかもしれませんけど、今のところ、睦/モーティスの多重人格設定を持て余しているのでは?という感じがします。モーティスの経験は、すべて睦ちゃんにとって不都合な経験であり、それゆえに感性を共有するモーティスにとっても避けるべき経験である。しかし、モーティスは人格として存在するため、自らの存在価値を保持しようともする。この論理は分りますし、そのように睦/モーティス劇場は構成されていると思います。それに従うように、CRYCHICのリハ演奏は睦ちゃんの経験でなければならず(演奏技術の問題もありますが‥‥)、CRYCHICの終わり、という睦ちゃんにとって不都合な解釈はモーティスが行なっています。こうなってくるとモーティスは、睦/モーティスの全経験を把握していることになるでしょう。一方、睦ちゃんは、少なくともこの点では、モーティスよりも知るところが少ないわけです。つまり、二人格の対立構造は、モーティスに傾いて不均衡に見えるわけです。モーティスは睦ちゃんに要請されて生じた(残った?)人格であるにもかかわらず、です。
 このことは、〈本当の自分〉という浪漫主義的な概念への疑義としても読めそうです(その意味で、「自我を探求する作家」という漱石像の構築に貢献したと考えられる『こころ』を祥ちゃんが読んでいるのは興味深いです。今度ダラダラ書くかもしれません)。わたしの理解では、現代思想は、ペルソナすべてが自我だと考え、どの部分が本当でどの部分が偽り、という峻別に意味を認めていません。時系列的に主であるはずの睦ちゃんが、少なくとも情報獲得能力において従的であること、つまり、人格における主従の位置づけが動揺させられていることは、この理解に沿っていると考えられます。
 とはいえ睦/モーティスは、多重人格者として表現されています。そのことは、外部との交渉だけでなく、内面的な会話においても人格が分裂している点に確認できます。一方が「死ぬ」という言い方も、多重人格ならではでしょう。しかし、多重人格とは、各人格が「他方の人格のことについてはなにも思い出せないようなヒステリー的人格(日本大百科全書)」だと理解してよいようです*。そうであれば、睦の経験をもモーティスの人格が束ねていることは、多重人格の症状から外れていることになりそうです。そもそも、「演技」や「役」というレトリックが多用されるのも、多重人格的ではありません。
 以上を踏まえれば、睦/モーティスは多重人格なのではなく、また、単に演技の上に表れる差でもない。この意味で、睦/モーティスの境界自体が曖昧なのだ、と理解するのがよさそうです(睦ちゃんは、睦ちゃんにとって不都合な事実を認識しないのではなく、作者にとって不都合な事実を認識しないのだ、という見方も不可能ではないでしょうけれど)。実際、ギターの技能も記憶のひとつであり、これは睦ちゃんの側にだけ束ねられていますが、モーティスは、睦ちゃんがギターを弾いていたことを記憶しています。睦/中間/モーティス、という構造なのかもしれません(もちろん「中間」は「本当の自分」を意味しません)。このように曖昧な境界を持ったまま、物語は、睦/モーティスと、CRYCHIC/AveMujicaとを重ねています。たしかに、CRYCHICとAveMujicaとは、祥ちゃん・睦ちゃんを共有しているため、その境界は不確実だと言えるでしょう。その視座に立てば、この対応は見事であるかもしれません。とはいえ、睦ちゃんだけでなく、祥ちゃんもCRYCHIC復活派になってしまう。「これで最後。CRYCHICはもう無いんですのね(七話)」と言っていたにも関わらずです。しかも、その動機が「睦のため」だとなれば、AveMujicaがモーティスのために解散し、今度はCRYCHICが睦ちゃんのために復活する、という反復を描いていることになります。そして、リハ演奏という「ターニングポイント」以後、初華ちゃん・海鈴は、AveMujica復活派となり、CRYCHIC復活派との対立を生じます。「睦/モーティス」は、「CRYCHIC/AveMujica」であり、「祥子(・睦)/初華・海鈴(・モーティス)」でもあるわけです。そして、後二者の対立構造は、睦/モーティスの対立から生じていながら、(先に述べたメンバーの重なりを無視すれば)比較的確実な対立を為しています。これら対立構造が、境界の曖昧であった睦/モーティスに重なっている以上、睦/モーティス問題は、それを解決するために生じた対立によって、強化されてしまうことになるでしょう。その点でもわたしは、物語に反復を感じてしまいます。ギスドリ自体は好きなのですけど、今のAveMujicaは、同じような問題を何度も見せられているような気分になってしまいます。

*「ヒステリー的」という言葉が用いられているところを見るに、この資料は、おそらく古すぎるのでしょう。ただ、参考文献に2007年の資料が挙げられているので、知見の上ではさほど古びてはいないだろうと判断しました(時間が遅いので面倒になっただけでもあります)。

16, February, 2025

 やほー。前回の日記は完全な悪口になってしまいました。まあ悪口なので好いのですけど、本当は、「哲学をやってたら頭が壊れた」みたいな物語を、多くの人々が無造作に受容している状況って面白いよね、みたいなことが書きたかったのです。実は、明治期に大学が整備されたことや、哲学科の学生が華厳の滝で自殺したことなどが、関わって生じた物語だそうです。だからやはり、哲学をやったら頭が壊れる、と無反省に言うべきではないのですね。
 さて、色々と書くべきことがあります。とりあえず、昨日の話をしましょう。昨日は、父の弟妹夫婦や、父型の祖母と集まり、カニを食べました。本来は一月中に済ませるべき行事だったのですけれど、誰かがコロナに感染したせいで、延期されてしまったのです。その場には、田舎の学校へ行った妹も帰省し、参加していました。「親戚」というよくわからない縛りで集まっただけなので、基本的には誰と話してもつまらない、馬鹿げた会合なので、妹の田舎の話を聞いていたところ、談たまたまアルバイトに及んで、妹の仕事内容を聞きました。曰、居酒屋で働いており、時折お客のお金で酒を飲まされるようです。
 此の話を聞いて思い出したのは、つい三日前の水曜日、友人と入ったおでん屋が、若い女の店員を多く雇っており、その女店員が客に向かって「ごちそうさまです」と言いながら、営業中にもかかわらず酒を飲んでいたことです。こういう営業形態の居酒屋は珍しくもないわけですが、これを見るとわたしは、非常な不愉快に襲われます。キャバクラなどと同様、性を搾取的に販売する不正義の形態であるうえ、そうした性的労働を契約上隠蔽している点で、むしろ水商売よりも不正義ですらある、と考えます。
 ですから、妹に対して、「それは水商売だ」と主張したところ、当人を含む参加者の大半が、「そうでない」と述べます。「その差異を教えてくれ」とわたしが言うと、あたかもわたしが、酒宴の雰囲気を汚す悪ででもあるかのように、「もういいから」と窘められてしまいました。わたしも馬鹿々々しくなって黙りました。結局、今に至るまで説明を受けられずにいます。 考えるに、「そうでない」という主張は、何の理路もなく、それゆえ「そうでない」と思う(感じる)からの発言でさえなく、そうあってほしくない、という願望の発露にすぎません。しかし、実態が水商売と同様な義務を課しているのだから、その願望は不正義への加担です。とくに、妹自身がその願望を共有しているのは驚異的です。搾取者は、当然、第一に非搾取者を教育し、搾取を肯定させるものです。しかも、自分の性・身体が不当に売買されていることへ無関心な人間は、新たな奴隷を教育するでしょう。こんな愚かな会合でした。
 その帰宅後、わたしとは無関係に両親が喧嘩を始めてしまい、不愉快な一日でした。ぐったりしてしまい、今日はMyGOやAve Mujicaを見て精神的な回復に努めました。ムジカ七話の「春日影」は何度みても素晴らしいですね。歌としては別に好きでもないのですけど、演奏される場面が綺麗すぎて、結果的に曲も好きになってしまいそうです。聞けば、ガルパに実装されたようですね。なんで「春日影」実装したの!? なので、APもしておきました。なんで「春日影」APしたの!? ってね。お前らもこれ言うために春日影APしましょう。
 こんなわけで、すっかりAve Mujicaへの熱量が膨らんでしまい、『New Type』2025年3月号まで買って来てしまいました。ムジカとマイゴのキャラクター相関図が掲載されているようです。見てみると、ネットで話題になっていた通り、楽奈ちゃん→そよりん・あのちゃんへの矢印が引かれていないのですけれど…… せめて「つまんねー女(の子)」とか書いてくれればネタになるのですが、二人が「つまんねー女(の子)」としてみなされるはずもなく、つまり知りたければガルパをやれ、ということなのでしょう。新人スタッフ風情が最近サボっててすみません。
 記事に話を戻せば、さきちゃんの声優にたいするインタビューもなかなか面白かったです。とくに、「史上最も恐ろしい極限の「バンドリ!」」とかいう小見出しには、笑ってしまいました。書き出しも「最新話が放送されるたびに、視聴者の悲鳴がとどろいている」って、ホラーアニメの煽りじゃないですか…… まあでも、演出が若干「ひぐらしのなく頃に」を想起させる部分はあると思います。五話でそよりんが「ひぃ!!」っていう場面とかを見ると、ムジカって実はホラーなのかもしれませんね。あのビビりまくっているそよりん可愛すぎません? 「T・G・W・Group!(鳩)」のあのちゃんくらい好きです。ちなみに、ムジカだとさきちゃんが好きです。そよりん→さきちゃんのメッセージが「祥ちゃん」表記なのにたいして、初華→さきちゃんだと「さきちゃん」表記なのも、(今日気付いたのですが)なんか良いよね。
 サキチャンから「祥ちゃん」は管見の限り変換できないので、そよりんのこだわりを感じます。ほら、そよりんってCRYCHIC時代にSNSを開設していますし、アルバムとかを作ること自体に嬉しさを感じるタイプだと思うんですよね。ある種の記録癖ですよ。そういえば、ムジカ七話では「春日影」後に照明の写真を撮っていましたね。この記録癖を敷衍すれば、昔わたしたちがメルアド帳を記入する時に感じていた嬉しさを、そよりんは予測変換への名前の登録で代替しているのではないか、と推測できます。「これ、絶対あれだよね。そよりんまーた一人で病んでるよね(六話)」とか、「落ちる時はあいつ、とことん落ちるから(同)」とか言われてしまう、その繊細さに由来していそうな、そよりんの記録癖が好きです。形のないものって怖いですよね。ソヨリン。我、一回性を恐れる勿れ(無理矢理すぎる)。一方で、初華が無反省なまま「さきちゃん」表記に甘んじているようにも思われません。幼馴染ゆえに持ち続けている、音としてのサキチャンという語感を、平仮名によって表現しているようにも感じられます。初華ちゃんのさきちゃんLOVEについては今後に期待っすよ(笑)あーあ、百合豚の悪いとこね、これ。いずれのメッセにも制作のこだわりを感じ、つい写経してしまいました。もちろん、暗い部屋のベッドに横たわりながら。
 無駄に長くなってしまったので、段落とかで何日かにわけて読んでください。日記とは。

11, February, 2025

 今日は小学校五年生以来の友人と昼メシをシバきました。唯一の「長い付き合い」ってやつです。京都駅のモツ鍋屋さんで、味噌味が濃くて喉は渇きましたけど、まあ美味しかったですよ。
 その友人は、去年の頭くらいから精神疾患者になったらしく(病名は伏せますが)、奇しくもメンヘラ仲間になってしまいました。本人によれば、三日間も眠らずに、宇宙の起源について、哲学的に考えていたら頭がおかしくなった、とのことです。話を聞いた私の判断では、研究(室)のストレスが原因で眠れなくなり、不眠が祟って奇怪な言動に走っていったような感じでした。まあ当人には言いませんけど…… 自分の思いたい姿で自分を思い描けば良いのだと思います。
 ただ、そういう自己演出って、聞かされる側は退屈ですよね。「自己演出」と断定するのも、「長い付き合い」の癖に酷い話ですけどね。とはいえ、難しいことを理性的に考えたい場合、思考に堪える身体の状態を保つべきことは、理性にとって納得されるはずではないかと思います。つまり、眠らずに思考あるいは耄碌を走らせ続けた時点で、すでに理性は機能していないのだと考えられます。だから、あたかも思考そのものが健康上の悪であるような言い方は、私には不愉快に聞こえてしまいます。思考への向き合い方が病的だったのだ、と言う方が穏当でしょう。
 こんなことを言ってしまうと、今度は自己認識をめぐって眠れなくなりそうなので、やはり本人には言えません。しかも、私たちは会うたびにそういう哲学的な話をする習慣を持っていて、また、恋人に私との会話を報告しているらしく、私との食事について恋人から懸念された、とも言っていました。ウケますね。この話をわざわざ書いたのは、当然、一般的な感性はこの話から、私の不快感を想像するだろう、と考えるからです。「思考そのものが健康上の悪であるような言い方」が不愉快だ、という記述が、別の不快を隠蔽するためのものだと思われるのは困ります。しかし、その隠蔽の可能性自体を隠すような記述にも納得できません。自分を卑怯だと思いたくないから書いたのであり、自分を卑怯だと思わせたくないから、こんなに長々と説明までしているのです。
 これで私の不愉快は、思考を敵視する言葉と、見え透いた自己演出だということが、多少なりとも伝わっていれば幸です。我、「誤解」を恐れる莫れ。

29, January, 2025

 我、サイト更新を恐れる勿れ。
 SNSなら怖くなる場合も容易に想定できますけど、サイト更新を恐れるようになったら末期だと思います。サイト更新だけは気楽にやりたいですね。いや、サイト更新を恐れるようにはなりたくないですね。つまり、サイト更新を恐れることを恐れているのですね? 我、恐れることを恐れる勿れ。そんなに言いたかったのか。どちらかと言うと祥子ちゃんが好きなので、「忘却」の方が言いたいところではあります。ただ、「サイト更新の忘却」って私にとって割と痛い文字列なんですよね。忘れずに更新していきましょう。ちなみに、小五から中三まで、人前に出る時は必ずマスクをしていましたから、然るべき時まで仮面を剥がされなかった世界線のAve Mujicaとしてmicheriaを目することができます。
 さて、ご覧の通り、Ave Mujicaをちゃんと観ています。もっとも、一話を何度も観たりはできてませんけど…… とはいえ、久しぶりにアニメを追えている気がしますよ。そのせいもあり、またおそらく、アニメの完成度が高いこともあり、楽しく視聴しています。まあ祐天寺さんのことは許してないんですけどね。仮面を剥がす意味が全くわからないので。(すぐに付け加えるのですが、私は別に祐天寺さんを―好きでもないですが―嫌いではありません。単に許せないだけです)
 ですがインターネットを見ていると、とくに四話の放送以後、肯定的な評価も散見されます。もちろん、好悪それ自体は個人的な価値観に従って構わないと思います。物語における倫理的な悪が好きな人は、必ずしも倫理的な悪ではないでしょう。ただし、問題は祐天寺さんを好ましい人物として評価する人々(以下「肯定派」)の言説です。好意に従って不正義を正義に書き換えてしまう発言は、虚構においてでさえ、非倫理的な行為であると私は考えます。彼(女)らが祐天寺さんを肯定する論理を拾ってまとめると、以下の三通りが見られました。
  ①家族から愛されている(→いわゆる裏の顔も性悪ではない)
  ②陰で熱心に練習しているなど→努力家・野心家(∈肯定的な性格)である
  ③容姿・九州方言が可愛い
 祐天寺さんを肯定している人々は、これらの(好感を喚起する)事実と、他の事実とを、価値評価の天秤にかけたうえで肯定しているのだと―もちろん、価値判断を量的に捉えることには限界もあるでしょうけれど―ひとまず考えられます。ここで私の言う「他の事実」とは当然、仮面を剥いだ事件を指しています。そして私は、自己実現への努力が持ち得る道徳性(ほとんど道徳教材性)は、他者を利用/妨害する行為が持ち得る非倫理性を、覆し得ないと考えます。以下に、仮面剥ぎの道徳的悪性についてダラダラ書いていたのですが、読み直すと面白くないので消しました。とにかく、仮面を奪うことで「にゃむち」と「アモーリス」とを統合し、「アモーリス」から「にゃむち」という不可逆の動線を結ぶことが、彼女の目的であったと考えられます。この動機は利己的だと言えます。しかも、これがアクシデントとして実行された点で「ゲスト」の期待に背いており、Ave Mujicaとしての契約にも反しているため、他害的ですらあるでしょう。このような意味で、仮面剥ぎは不正義です。
 この不正義として解釈される行為を不当に軽視して、自己実現の願望・活動から彼女を道徳的に評価してしまう、肯定派の人々。家族という日常的関係よりも利害の絡む関係において本性が出る、とは言いませんが、利害の関係において他者を害した事実は争えません。そして、その罪は未だ雪がれていません。そうであれば肯定派は、贖われないままの罪を、好感を根拠に軽視しているのでしょう。こうした裁定は、内面の領域において非事実として下されている限りにおいて咎めを受けずに置かれますが、ひとたび発信されると、その事実が法的・倫理的な判断を受けることになるでしょう。たとえば、不正義を正義とみなす非道徳的な発言として。これを一つの理由として、われわれは、好悪に基づく自らの裁き(もちろん価値判断でない)に、倫理的な反省を加え続ける必要があるのだと思います。法的反省はしなくても大丈夫でしょう。気づいたら権力が裁いてくれるので……
 ところで、ゴシップの芸能人を非難・擁護している人々には、発言行為についての反省がほとんど窺えません。ゴシップの内面的な消費を越えて、言葉を発したとき、今度は彼(女)が秤に掛けられます。そこに見られる、正義あるいは不正義を書き換えるような非道徳的発言への無自覚は、にゃむち肯定派の言説と重なり合っているように見えます。

08, January, 2025

 おひさーです。micheriaちゃんです。  明けちゃいましたね〜年。2025年だそうですよ。つまり昭和100年ですね。そろそろ大正に生まれた人とか、みんな亡くなっちゃいそうですよね。生年月日の選択欄から「大正」が消える日も近いのかもしれません。
 年明け早々やめましょうね。まあ、既に「早々」って程でもないですけどね。正月休暇も終わっちゃいましたもんね。年末年始は怠惰を極めてしまったので、講義室やら図書館の椅子で腰が痛いです。
 正月休暇といえば、一月二日、暇つぶしにドンキホーテへ行きました。人間は、暇になると電器屋かホムセンかドンキに行く生物です。今回の目的は、ペヤングのゴキブリ獄激辛を買うことです。先日、売っているのを見かけたんですよ。青ではなく、赤い鬼の方ですけどね。最近は飽きられてしまったのでしょうか、ほとんど見る機会がありませんね。家で刺激のない堕落した暮らしをしていると、久しぶりに食べたくなってしまいました。値段を見たら200円もしましたよ、大して美味しくもないのに。
 とはいえ私は舌が馬鹿なので、味を捨てて痛みを選択してしまいます。ちなみに、インスタントならUFOより一平ちゃんが好きです。ペヤングは、変な味の売れ残りが安売してたら買うくらいです。青鬼の方の獄激辛も、50円くらいで叩き売りされていたのを買って食べた記憶があります。
 そんなことはどうでもよくて。どうせ暇なので、ペヤングついでにフラフラ見て回っていると、ZIPPOの売場でまどマギのライターが叩き売られているのを発見してしまいました。ほむらちゃんの方です。まどかちゃんの方は持っていますし、先月フィギュアを買って高まった熱に浮かされ、まんまと購入してしまいました。4800円くらいです。働いていないので常時金欠なわけですが、このクオリティで5000円を切るのは凄いので、買わない法はなかったと思います(どうせビビって使えないので、最悪ネットオークションに流せばよいか、とか一瞬だけ思ってしまいました)。買う前にヤフオクの相場を見たのは内緒です。
 持ち帰ってみると、やはり綺麗で手放す気が失せてしまいました。まどかちゃんフィギュアの横へ飾ることにしましょう。使ってオイル臭くなったら嫌ですもんね。
 あ、ちゃんとペヤングも買って食べましたよ。なかなか辛かったんですけど、ちょっと期待ハズレでした。